読書ロク

ゆっくり本を読んで感想を書いていきたいと思います

オルダス・ハクスリー「すばらしい新世界」を読む 

黒原敏行訳(光文社古典新訳文庫・2013年)
大森望訳(ハヤカワepi文庫・2017年)
※どちらも読みやすいですが引用は黒原訳にしています
 
自由か安定か。個人でもそういった選択を迫られることはときどきある。この小説は社会全体が後者を選んだ世界の物語だ。
 
※以下ネタバレあります
 

 

そこでは人間は母胎ではなく、試験管の中で受精しアルファ・ベータ・デルタ、・・・、イプシロンといった階級に分類される。生まれてからも睡眠学習をはじめとした条件づけと言われる教育によって、何を好み、何を嫌うかを階級ごとに刷り込まれる。自分の階級でよかった、今ある状況を幸福だと感じるように教育される。
 
「それこそが」と所長はもったいぶった口調で言う。「幸福な人生を送る秘訣なのだよーー自分がやらなければいけないことを好むということが。条件づけの目的はそこにある。逃れられない社会的運命を好きになるよう仕向けることにね。(黒原訳・25頁)
 
階級、能力に応じたやるべき仕事があり、それを行うことで一定の充実感を得る。触感映画やフリーセックスなど欲望を満たしてくれる娯楽があり*1、悩みや嫌なことがあっても合法ドラッグ・ソーマがすべてを忘れさせてくれる。老いを恐れることはなく60歳になればみな死んでいく。人間を階級に分けその中で均質化させることで、社会を安定させる。安定こそが幸福であるという前提のもと、完全にコントロールされた「洗練された」社会だ。スローガンは「コミュニティ、アイデンティティ、スタビリティ」*2
 
同時に、人間性を喪失した「野蛮な」社会でもある。特に人間の生命を生み出す<孵化・条件づけセンター>という社会を安定的に維持するために人間を作り出す現場の人々の言葉には人間に対する敬意はない。
 
「下の階級ほど酸素を減らすんですよ」とフォスターが言った。まず影響を受けるのは脳。その次が骨格。標準的供給量の七〇パーセントで低身長となる。70パーセントを切ると目のない化け物ができる。(中略)「でもエプシロン階級に高い知能なんて必要ありません」とフォスターはずばり言いきった。/必要ないものは与えない。だが、エプシロンの知能は一三歳で完成しても、身体は一八歳まで労働に適さない。成熟するまで何年か無駄になる。もし身体の発達速度が、たとえば牛くらいに速まったら、共同体にとって大いなる節約になるだろう!(黒原訳・23頁)
 
 そんな「幸福な」社会からはみ出し、孤独をかかえた人物が3人登場する。
 
一人目は、バーナード・マルクス。アルファプラスという上位の階級に属し、孵化・条件づけセンター職員でありながら、誕生時の手違いによって同じ階級の中では劣った外見的、身体的特徴をもつことになり、それがコンプレックスとなり、この階級社会になじめず孤独を感じている。
 
「見てのとおり、僕は他人と違っているからね。壜の中での育ち方がたまたま他人と違っていると・・・」(黒原訳・197頁)
 
 二人目は、ヘルムホルツ・ワトスン。こちらもアルファプラス階級でバーナード・マルクスの友人。本業は感情工科大学創作学部の講師だが、雑誌に寄稿したり脚本を執筆したりと才能豊か。バーナードの孤独とは異なり、ヘルムホルツは優秀過ぎるがゆえに、この安定した社会に物足りなさを感じている。ヘルムホルツが求めているのは、安定ではなく激しい感情をともなう芸術や真理であった。それらはこの「幸福な社会」が安定を維持するために排除してきたものである。
 
確かに少々優秀すぎるのだった。自意識過剰が、バーナードの場合とよく似た効果をヘルムホルツに与えていた。バーナードのほうは肉体的欠陥が原因で、貧弱な骨と筋肉のせいで周囲から孤立しているが、自分が孤立しているという意識はどう見ても自意識時過剰であり、それがさらに孤立の度合いを深めてしまう。それに対してヘルムホルツは自分は他人と違っていて独りぼっちだと感じるのはあまりにも有能だからだった。二人の共通点は、自分は他人とは違うひとりの個人だと知っているところにある。(黒原訳・100頁)
 
この均質化された社会で、社会の安定が個人を優先する(個人が安定するには社会も安定する必要があると説かれてはいるが)世界において、バーナードもヘルムホルツも個人であることに対する強い意識によって悩み苦しんでいる。自我についての問題である。自我や個性をなくすことで社会を安定させ、幸福を実現した社会において芽生えた自我はよりいっそう人間を孤独にする。
 
 最後の一人は、ジョン。野蛮人保護区内の村マルパイスで生まれた。しかしジョンは、リンダというもともとは文明側のベータ階級に所属し、孵化・条件づけセンター所長トマスと一緒に保護区を見学に来た際にはぐれて保護区内に留まることになってしまった女性の息子であり、そのためにマルパイスの住民からはよそ者扱いされ、のけ者にされている。
 
「他人と違っていると孤独になる。みんな、そのひとりに対してものすごく残酷になる。僕はどんなことでも除け者なんです。(以下略)」(黒原訳・197頁) 
 
これには、単にジョンの姿が住民と異なっているというだけではなく、母親リンダが文明側の常識・思考が抜けきれずに自由奔放に家庭をもった男たちと寝たりしていることも理由である。
 
そんなジョンを見て、バーナードは所長トマスへの恨みもあって、ジョン(とリンダ)をロンドンに連れて行こうと統制官ムスタファ・モンドに掛け合う。
 
「この問題に、関してですね」バーナードはつかえながら説明した。「閣下は科学的関心をお持ちになるかもしれないと思いまして・・・・・・」
「確かに科学的関心はある」と深みのある声が言った。「そのふたりをロンドンに連れて行きたまえ」(黒原訳・203頁)
 
これは、古い慣習を持つ社会で生まれ育ったジョンが、均質化され管理された「幸福な」社会でどのような反応を見せるか、という意味で「科学的関心」ということだ。ちなみにハクスリーはこの保護区内の社会を理想だと考えているわけではなく、むしろ原始的な信仰をもつ「野蛮な社会」と考えているようだ。どちらも極端であり、その二択しかないところがこの小説の欠点だとしている(黒沢訳・374頁「著者による新版へのまえがき」)
 
こうして「文明化された」社会に連れてこられたジョンは、「野蛮人」ということで人々の注目を集め、その保護者としてバーナードはジョンの保護者として周囲から尊重され始める。
 
というわけで、みんなが会いたがるのはジョンのほうだった。ジョンに会うには後任の保護者であるバーナードを通すしかない。今やバーナードは生まれて初めて普通に扱われるようになっただけでなく、とびきりの重要人物とみなされるようになった。(中略)パーティーへの招待をちらつかせれば、バーナードはどんな女とも選り取り見取りで寝ることができた。(黒原訳・222-223頁)
 
バーナードは調子に乗りだす。
 
これまで強い不満をいだいていた世界と完全に和解した。こちらを重要人物と認識してくれる限り、この世界の秩序もいいものだった。もっとも成功によって和解したとはいえ、秩序を批判する権利は手放したくない。なぜなら批判という行為によって、自尊感情が強まり、自分をより大きな存在だと感じることができるからだ。」(黒沢訳・224頁)
 
最初に読んだときには、「あれ?バーナードって、けっこう小物感があるな。ちょっと思ってたのと違う」と感じた。というのも以前バーナードはレーニナとのデートでこんなことを言っていたのである。
 
「僕は見たい。海を見ているとまるで・・・・・・」バーナードはそこで間を置いて、自分の気持ちを表わすのにぴったりな言葉を探した。「もっと自分らしくなれるような気がする。ほかのものの一部になりきっているんじゃなくて、独立独歩でいられるというか。社会という身体の一細胞にすぎないのじゃなくてね。君はそんな風に感じないか、レーニナ」
(中略)
バーナードは口調を変えて、物思いに沈みながら返した。「どうして言えるんだろうな。いや、本当の問題はこうなんだ。どうして僕はーーいや、理由は知っているからこれはおかしいな。だから、むしろこうか。かりに僕が条件づけの奴隷ではなくなって自由になれたらどんなだろうという」
「ねえ、バーナード、あなたとんでもないこと言っているわよ」
「君は自由になりたくないか、レーニナ」
「言っている意味がわからない。わたしは自由だもの。自由にすばらしい時間が過ごせるもの。今はだれもが幸せなのよ」
バーナードは笑った。「そう、"今は誰もが幸せだ"。これは5歳のときから教えはじめる。でもきみはもっとほかのやり方で幸せになりたいと思わないか、レーニナ。たとえば、ほかのみんなと同じじゃない、君自身のやり方で」
(黒沢訳・131-133頁)
 
このときはたぶん、「安定こそが幸福」とする社会に対して、もっと違ったありかた、「自由」こそ幸福のなんだという考えをハクスリーはバーナードという孤独な男に託しているのだと思っていた。つまりこの小説の主人公である。なのにそれが「結局もてたいだけだったのかよ」と思ってしまったのである。

しかし考えてみれば、バーナードがその身体的な特徴ゆえに、アルファプラスでありながら、他の人と違う劣等感もち、孤独であったことを考えるともともとは、この均質化された社会で幸福を享受したかっただけなのかもしれない。バーナードの孤独はこの社会で癒されうるものであった。
 
同時にバーナードは強すぎる自意識ゆえに、この社会に対する批判も忘れてはいない。バーナードがムスタファ・モンドへ報告書のなかに次のようにあり、これは小説の中の「幸福な」社会を批判していながら、ある意味では現代社会にも通じることなのではと思い、おもしろい。
 
"・・・・・・もっともわたしは、文明人はあまりにも幼児的で安直に欲望を満たされるぎる、野蛮人の言い方に従うなら、もっと高い代償を支払って何かを手に入れるべきだということに賛成せずにはいられません。そこでこの機会に閣下の注意を喚起したく思うのですが・・・・・・"(黒原訳・227頁)
 
 そんなことは重々承知している、ムスタファ・モンドにとってはこの言葉は苦笑するしかない。まあそれはおいておいて、同じようなことをバーナードはそれ以前にも言っている。
 
「みんな知的には大人だし、働いているあいだも大人だけど」とバーナードは続けた。「感情や欲望のことになると幼児的なんだ」(黒原訳・137頁)

 

管理されすぎたこの社会は、感情を安定させるため、激しい感情を喚起することがないように、すぐに欲望が満たされたり苦悩を忘れさせてくれるような、そういった社会であり、それは幼児的だとバーナードが考えているのはおもしろい。こういう考え方ができる人間から、その孤独の原因は違えど、ヘルムホルツとも友人になれたのではないかと思う。
 
 話は前後するが、バーナードがジョンに対して、ロンドンに一緒に行くかと提案した時、ジョンは大喜びする。それはジョンが夢に見ていたことなのだった。母親であるリンダから聞かされていた文明化された世界は、保護区内では邪魔者扱いされていたジョンにとって理想の世界、ユートピア、「すばらしい新世界」であった。同時にジョンはバーナードと一緒にやってきたレーニナに恋しており、この、すばらしい新世界での二人のすばらしい未来を思い描いたようである。バーナードはそのことには気がついていなかったが、あまりに「文明化された」社会に期待しすぎるジョンにくぎを刺す。
 
バーナードは当惑と驚きを顔に浮かべてジョンを見た。「それと、新世界の評価は実際に見てみるまで待ったほうがいいんじゃないかな」(黒原訳・200頁)
 
この辺はなかなか興味深くて、この時点ではバーナードにとって「幸福ではない」社会に、ジョンが適応できるとは考えていないということがわかる。今いる世界に不満があっても飛び出した先がユートピアとは限らないのだ。
 
バーナードの予想はすぐに当たってしまう。「文明化された」社会の現実を知るにつれて、ジョンはどんどん病んでいく。母親のリンダは合法ドラッグ・ソーマの力によって安静を得るが、部屋に閉じこもり、自分の世界から出てこない。そしてやがて死ぬ。ジョンついては予想が当たるも、予想以上にジョンが注目を浴びたおかげで、自分の評価も上がってしまうというのは予想できなかったことである。ジョンは人々の前に出ることを拒み、そのため代理人のバーナードも信用を失ってしまう。ジョンなしのバーナードは、また前の周囲から疎外感を感じる惨めな彼に戻ってしまうのだった。
 
幸福と自信でいっぱいにふくらんでいたバーナードの気球はみんなの言葉にぶすぶす刺されて、一〇〇〇の穴から空気が抜けていった。バーナードは青ざめ、うろたえ、みじめに動揺して、招待客の間を歩く。(中略)一同は当然のように飲み食いしたが、バーナードのことは無視していた。酒が進むと、面と向かって暴言を吐いたり、まるで本人がこの場にいないかのようにバーナードを声高にくさしたりした。(黒原訳・250頁)
 
ここに、奇しくもバーナード自身が批判した、この「幸福な」社会に生きる人々の「感情や欲望のことになると幼児的」という一面が出ているように感じる。欲望が満たされることに慣れ、失望に対して脆弱であるとでも言えばいいであろうか*3
 

 最後の者が音高くドアを閉め、バーナードはひとり残された。/穴だらけになって空気が抜け、完全にぺしゃんこになって、椅子にへたりこみ、両手で顔を覆って泣き出した。だが数分後、気を取り直してソーマを四錠呑んだ。(黒原訳・252)*4

 

ジョンと違って、孤独をかかえているとはいえ、「文明かれた」世界で生まれ育ったバーナードは必要があればソーマを飲むことができるというのも面白いが、いずれにしても、この新世界でジョンも、バーナードもますます孤独を深めてしまうのである。ヘルムホルツはと言えば、浮かれていたバーナードと一時は距離を置いていたが、彼が再び友情を求めたとき、快く受け入れている。そういう器の大きさがヘルムホルツにはあった。そのとき、ヘルムホルツはこの社会に反発するような自作の詩が当局に目をつけられ、大学を首になるというトラブルに見舞われていた。

 

ヘルムホルツは笑っただけだった。少し沈黙が続いたあとでこう言った。「俺はなんだか各テーマができてきたような気がしているんだよ。自分にあると感じられる力を使いはじめている気がするーー隠れた、特別の力ってやつをね。俺の中で何かが起きてるんだ」大変なトラブルに巻きこまれたというのに、ヘルムホルツはひどく幸福そうだとバーナードは思った。(黒原訳・260頁)

 

ここは本作の中で一番希望のある箇所であるかもしれない。またヘルムホルツはジョンとも意気投合し、ジョンが読み上げるシェイクスピアの詩を聞き、感情を揺さぶられるのである*5

 

やっぱり傷ついたり、混乱したりということは必要なんだよ。そうでなきゃ、本当に優れた、X線みたいに本質を突き通すフレーズは思いつけるものじゃない。(黒原訳・265頁)

 

そして、3人に対して新世界を管理・支配する側の代表者として統制官ムスタファ・モンドがこの物語の後半の最重要人物となってくるのである*6

 

このムスタファ・モンド閣下と3人の、特に「野蛮人」ジョンとの思想的対決が、この小説の後半における最大の読みどころだ。だがその前に、重要なシーンがある。リンダの死である。先にも書いたがリンダは「文明化された」社会のベータ階級として生まれ、他の人々と同じように生きていたが15年ほど前に<孵化・条件づけセンター>センター所長のトマスと一緒に野蛮人保護区に旅行にいった際にはぐれてしまい、保護区内に取り残された。そして<マルサス処置>という避妊法は実施していたにもかかわらず、なぜか身ごもってしまっており、保護区内で間もなくジョンを生むことになる。

 

新世界の価値観では<母親>とか<子供を産む>とかいう言葉は古く、卑猥な言葉とされておりリンダも自ら出産したことを恥じ入るが、同時に保護区内でよそ者であったために、息子のジョンが心の支えであったことを認めている。

 

「そうよ、赤ちゃんよ。わたしはその赤ちゃんの母親になったの」リンダは"母親"という猥褻な言葉を怒りのこもった沈黙の中へ投げ込んだ。それからふいに所長から身を離した。あまりの恥辱に両手で顔を覆い、すすり泣いた。「わたしが悪いんじゃないのよ、トマキン。だってわたし、いつもマルサス処置をやってたでしょ。そうでしょ? いつだって・・・・・・だからどうしてだかわからないけど・・・・・・出産がどんなに嫌なことだったか、あなたにはわからないでしょ、トマキン。でも、それでも、あの子がいたおかげで、わたしずいぶん慰められたのよ」(黒原訳・216-217頁)

 

 新世界では「親子」という感情も存在しないが、保護区内でそれが芽生えかけていたことがうかがえる。しかしあくまでみずからの慰みとしてだ。一方、ジョンは保護区内で生まれたため母親に対する愛情は当然のこととして感じている。ここには温度差があり、それがはっきりと表れているのは、リンダの死の間際のシーンである。ベッドに横たわるリンダを前にジョンは声をかけるが、リンダはジョンを認識しない。それどころか保護区内での愛人ポペの名前を叫ぶ。

 

「ねえ、リンダ!」ジョンは哀願する声で言った。「僕がわからないの」自分は一所懸命やった。最善を尽くした。なのに、なぜリンダはあのポペのことを忘れさせてくれないのだろう。ジョンはリンダのくったりした手を暴力的なまでに強く握った。あさましい快楽の夢から、下劣な憎むべき記憶から、無理やり引き離して、現在へ、現実へ連れ戻そうとするかのように。確かに現在は厭わしく、現実はおぞましいーーけれども、嫌悪感を催すほど切実なものであるからこそ、この現在の現実はすばらしく、意義深く、この上なく大切なのだ。「僕がわからないの、リンダ?」(黒原訳・295頁)

 

これは厳しい現実を避けソーマによる快楽の世界に閉じこもり、死んでいこうとする母リンダに対して、ジョンがどんなに厳しくても現実の方が「すばらしい」という訴えかけである。保護区内でも新世界にもなじめずよそ者であるジョンの訴えかけであると同時に、この小説の重要なのメッセージなのかもしれない。そしてリンダの死とともにジョンは決意する。

 

リンダは奴隷だった。リンダは死んだ。だが、ほかの人間たちは自由に生きるべきだ。世界は美しくあるべきだ。それが償いになる。それが義務だ。ふいにジョンは何をなすべきかをはっきり悟った。日除け窓が開け放たれ、カーテンが開かれたような気分だった。(黒原訳・304頁)

 

ジョンはさっそく行動を起こし自由を叫ぶが、新世界の価値観に慣らされた周囲からは狂っているとしかみなされない。そこにバーナードとヘルムホルツが駆けつける。ヘルムホルツはジョンを理解し加勢するが、すぐに警察隊がやってきて、何もしてないバーナードもろとも逮捕され、世界統制官ムスタファ・マンドの前へと連れていかれるのである。

 

ムスタファ・マンドは、新世界の禁書とされる過去の文学作品を読んでいる。そして新世界にはそれらのような芸術は不要だと考えている。

 

「われわれの世界は『オセロー』の世界と同じでないからだ。鉄なしで自動車がつくれないように、社会的不安なしに悲劇はつくれないんだ。今の世界は安定している。みんなは幸福だ。(中略)デルタに自由の意味が理解できると思ったのかね! そして今度は『オセロー』を理解できると期待しているのかね! かわいい坊やだ!」

(中略)

「しかし安定性を得るためには代償を支払わなければならない。幸福か、かつて高度な芸術と呼ばれたものか、どちらかを選ばなければならないんだ。われわれは高度な芸術を犠牲にした。かわりに触感映画と芳香オルガンを選んだ」(黒原訳・317-318頁)

 

これがこの新世界の基本原理である。社会の安定こそが幸福であり、それを維持するために不要なものは排除する。

 

ジョンは首を振った。「なんだか僕にはひどくつまらないものに思えます」

「それはそうだよ。現実の幸福は、みじめな状態の過剰補償に比べればつねに卑小なものだ。また言うまでもなく安定性には不安定性のような派手なところはない。現状への満足には不運と果敢な闘いの持つ壮大さがなく、誘惑との苦闘や、情熱や疑いへの致命的な敗北傷が持つ華麗さがない。幸福とは偉大なものではないんだ」(黒原訳・319頁)

 

前にバーナードが人々は「感情や欲望のことになると幼児的なんだ」と述べていたが、その上に立つ統制官ムスタファ・モンドは、実に達観したリアリストで大人であり、彼の言葉には一定の説得力があるようにも思える。またムスタファ・モンドは芸術同様、本物の科学は社会の安定を脅かすとも考えている。モンドはかつては優秀な物理学者であり本物の科学を研究していたという。しかしそれを捨てて統制官になる道を選んだ。ジョンは最初から新世界の価値観に条件づけされいないが、ヘルムホルツでさえも条件づけから完全には逃れられていないのに、この世界の統制官だるモンドが条件づけが解けている人間であるというところが面白い。それはよく言えば、選ぶ機会があると言えるが、厳しさを伴う選択である。つまり、モンドは自己の選択という経験において現実の厳しさを知っている人間であるのだ。

 

「ときどき科学が恋しくなることもある。幸福は厳しい主人だーー他人の幸福はとくにね。こちらが無条件に真理よりも幸福をよしとするよう条件づけられていないときは、いっそう厳しい主人になる」ため息をつき、また少し黙ってから、さっきよりきびきびと続けた。「しかし義務は義務だ。自分の好みに従っているわけにはいかない。わたしは真理に興味があるし、科学が好きだ。だが真理は脅威であり、科学は公共に対する危険なんだ。利益をもたらすが危険も大きい。なるほど科学は歴史上最も安定した社会をわれわれに与えた。(中略)しかしせっかくの科学の恩恵を科学自身が打ち消してしまう事態は許してはならない。だからこそわれわれは科学研究に対して慎重に限界を設けている。わたしが島送りになりかけた理由もそれだ。われわれは科学に当面の最重要課題しか扱わせない。それ以外の研究は丹念に芽をつんでいく」(黒川訳・327-328頁)

 

現代社会では、ハクスリーが生きた時代よりもさらに科学技術の進歩が速く、様々な分野に広がっている。21世紀に入ってネット社会になり、近年では人工知能によりそれにさらに拍車がかかっている。生命科学の分野などでは倫理的な問題から何らかの制限をかけるべきだという意見があがることもあるが、現実的に科学進歩の一切を管理し制限するのは不可能である。また人類が抱える諸問題は、すべてとは言わないまでもその重要ないくつかは科学によって解決されると信じて日々研究を続ける科学者がいることも事実である。どちらが正しいとは言えない。いずれにしろ、本作の世界が選んだのは「真理と美から快適と幸福」(黒原訳・328頁)を目指す社会であり、「万人の幸福が社会の車輪を持続的に回していく」(同)のである。

 

ムスタファ・モンドは、この考え方を選択した理由は、他人の幸福に対する奉仕するためだと言ってる。社会全体の安定、幸福のために。それができない者は社会から退けられるしかなく、そういった人々が集まる島に送られる。バーナードは取り乱し連れ出され、ヘルムホルツは自らの意志でそれを受け入れる。ヘルムホルツはムスタファ・モンドが選ばなかった方の道を選択するのだ。

 

「芸術に科学ーあなたがたは幸福のためにかなり高い代価を支払ったようですね。」ジョンは世界統制官とふたりきりになると、そう言った。「ほかに何を犠牲にしたんです」(黒川訳・331頁)

 

答えは「宗教」だった。そしてムスタファ・モンドはフランスの哲学者メーヌ・ド・ビランの言葉を引く。

 

「”われわれの所有物が自分のものでないのと同様、われわれ自身は自分のものではない。自分で自分をつくったのでない以上、われわれは自分自身に対して最高権威者とはなりえない。われわれは自分自身の主人ではない神の所有物なのだ。これはわれわれにとって不幸な考え方であろうか。自分は自分のものと考えることこそが幸福と慰安をもたらすのだろうか。若い盛りの人たちはそう考えるかもしれぬ。すべて自分の望みどおりになること、誰にも頼らぬこと、目に見えないもののことは考えなくてもよいこと、たえず誰かに感謝し、祈り、行動の指針を決めてもらう面倒を免れていることーーそうしたことをすばらしいと思うかもしれぬ。しかし誰でも年を重ねるにつれて、人は独立して生きていけるものではないと気づくようになる。独立は不自然な状態であり、一時的にはともかく、最後までそれで無事に過ごせるものではない・・・・・・"」(黒原訳・334頁)

 

同様にもう一冊の本を引いて、若いうちは宗教心は不要で神から独立していると考えることができても、老いを経験すると絶対的かつ永続的な真理を求めるようになると述べている。老いによって死を恐れるのみならず、加齢によって欲望は衰え、理性がより働くようになるからであるという。逆説的にではあるが、ムスタファ・モンドの思想を支えているといってよい。つまり、若さやを失わなければ宗教は不要であるというのである。

 

ジョンは「原始的な」保護区内で生まれ育ったので、神を信じており、ムスタファ・モンドの主張に反論し、モンドは応じる。ジョンも「野蛮人」でありながら優れた知性を持っているが、ムスタファ・モンドが一枚も二枚も上手であった。バーナードにしても、ヘルムホルツでさえそうであるが、彼ら3人はおそらく社会全体ではなく、人間個人、もっと言えば自分自身を前提に議論している*7。個を認めるということは、逆説的に言えば、多様な自由や幸福があるということであり、個々の議論において、こうあるべきだと一般化することが難しい。それに対して、ムスタファ・モンドは社会の安定を絶対的な幸福の前提としているから、社会が安定するためにはこうあるべきだと主張することが可能になるのだ。

 

先に、「幸福とは偉大なものではない」と言ったムスタファ・モンドであるが、同じように次のようにも述べている。

 

「いいかねきみ、文明には高貴なことも英雄的なことも全然必要ないんだ。そんなものが現われるのは政治が機能していない証拠だ。われわれが生きているような適切に運営された社会では、高貴なことや英雄的なことをする機会は誰にも与えられていない。(黒原訳・341-342頁)

 

この新世界は限りなく「うまくいった」社会であり、適切に運営されているかぎり、ムスタファ・モンドが述べることは一つの真理であるような気もする。だが同時にバーナードやヘルムホルツ、ジョンのような人々が存在している限り「完全な」社会であるとは言えないのである。ムスタファ・モンドは、そういう人々は社会の一員としてみなさず、島送りにするという解決法しかもっていないし、いつでもそういう可能性があることを気にかけているからこそ、その芽をつむことに細心の注意をしているのだ。本当に「完全に幸福な」社会であればその必要性すらないだろう。

 

いずれにしても、ジョンはムスタファ・モンドの考え、この新世界の思想を受けいることは出来ず、有名な次の言葉を宣言して、この対決は終わる。

 

「僕は不幸になる権利を要求しているんです」

(中略)

ムスタファ・モンドは肩をすくめた。「まあ、ご自由に」(黒原訳・346頁)

 

その後、バーナードとヘルムホルツは島へと旅だち、ジョンも「文明社会」を去る。ジョンは頑なまでに「文明化された」社会を拒み、孤独をかかえつつ、最後は自ら命を絶つという悲劇で物語は幕を閉じる。

 

自由か安定か。二人の主張のどちらが正しいということでもない。ともに両極にあり、現実はその極の間を行ったり来たり揺れながら社会は進んでいくのだと思う。失敗し、悩み試行錯誤を繰り返しながら、安定を、人々の幸福を目指すのが人間の社会なのだろう。読了後、そんなこと考えた。

 

さて、あまり触れなかったが、最後にレーニナ・クラウンというこの小説の一応のヒロインについて気になったところを。この小説の登場人物にはマルクスだったり、エンゲルストロツキー、バフーチンといったロシアの思想家や政治家が出てくるが、レーニナはレーニンからきている。それはいいとして、この「文明的な」社会において、レーニナはわりと恋愛体質である。最初はフォスターと「4か月も」一途に交際しており、次にバーナードに好意を持ち、そしてジョンに惹かれる。誰とでも寝るというところは他の人たちと変わらないが、恋愛感情で心が浮き沈みがあるところが仲のいいファニー・クラウンなどとは少し異なっている(ただしソーマをすぐ服用する)。

 

そんなレーニナがジョンに惹かれているときに、ジョンの態度が思わしくないことで思い悩んでいるシーンがある。

 

レーニナは深々とため息をつきながら注射器に薬液を満たした。「ジョン」とつぶやく。「ジョン・・・・・・」それから、あ、わたし、この子に眠り病の予防注射をもうしたんだっけ?と考えた。憶えていない。結局、二度注射してしまう危険を避けることにして、次の壜の処置に移った。/この瞬間から二二年八ヵ月と四日ののちに、タンザニアのムワンザ州ムワンザで行政官として働く前途有望なアルファ・マイナスの青年が、トリパノソーマ病で死ぬ運命が決定した。それは半世紀ぶりの病による死となるはずだ。レーニナはため息ひとつついて、仕事を続けた。(黒原訳・268頁)

 

レーニナは思い悩むあまり、仕事上でミスをする。バーナードの身体的な特徴も、こんなふうなミスによって生まれたのかもしれないと考えてしまうエピソードだ。こんなふうにして完璧に管理された社会に見えて、その実、一人の人間の感情の小さな浮き沈みによって人為的なミスが発生しうるという描写は、さすがである。

(2021年5月8日)

 

 

*1:愚民政策や3S政策を思い起こさせる

*2:黒原訳では「共同性・同一性・安定性」、大森訳では「共生・個性・安定」

*3:こういった人々の性質はジョンも看破していて、のちに「些細なことで敵になってこちらをいじめる友人たちなど無価値だ」(黒原訳・255頁)といっており、バーナードも同意している。

*4:ここにあるように、この小説では「空気が入った/空気が抜けた」みたいなニュアンスが結構出てくる。「空気が入った」という意味で英語では"preumatic"という語が使われているようで、黒原訳の訳者あとがきではこの言葉の訳語に迷ったということが書いてある。というのも、レーニナの肉感的な感じを表現するためにも使われているからである。黒原訳では苦慮の末に「弾みのある」という言葉で訳している。大森訳では「むちむちした」となっており、個人的には後者の方が自然な感じがする。

*5:そんなヘルムホルツも「ロミオとジュリエット」の一節では新世界の価値観との違いから失笑してしまうシーンもあったりして、新旧の価値観の隔たりの大きさを感じる

*6:<中央ロンドン孵化・条件づけセンター>所長のトマスも文明化された社会の典型的な人物であるが、リンダとジョンと再会したことによってあえなく失脚されてしまうし、彼自身がそうした「文明的な思考」を刷り込まれた人間である。それに対してムスタファ・モンドは古い価値観との比較においてこの新世界の価値観を選択している

*7:黒川訳巻末の解説にもバーナード、ヘルムホルツ、野蛮人ジョンがそれぞれ求めている「自由」の限界について指摘されている(410頁)